夜の裏

彼女の膝は、なぜこちらを向いていたのか

登場人物:ユイ(27歳)、タカシ(42歳)、ミク(21歳)、佐々木(54歳)

※登場する店と人物は、すべて架空です。

私

グラスに氷を足すとき、彼女の手首の内側が見えた。白い。細い血管が一本、うっすら透けている。
「ユイです」
名刺を差し出す指先が、私の指に一瞬だけ触れた。わざとなのか、偶然なのか。確かめる度胸は、42歳の私にはもうない。

黒いドレスの肩紐が、笑うたびに少しずつずれていく。彼女はそれを直さない。直さないまま、耳元に顔を寄せてくる。
「タカシさん、って呼んでいい?」
甘い香水の奥に、かすかに肌の匂いがした。
彼女が前かがみになると、ドレスの胸元にやわらかな影が落ちる。私はあわてて、水割りの氷を見つめた。
気づけば、私の手の甲に、彼女の指が一本ずつ重なっていた。膝はこちらを向いている。裾からのぞく膝頭が、私のスラックスに触れるか触れないかのところで止まっている。
その数センチが、どうしようもなく遠い。

同じころ、ユイの頭の中

名前を呼ぶのは3回目。そろそろ場内指名が来る。
手首が見えたのは、氷のトングが重いから。肩紐は、さっきトイレで留め具が壊れた。直さないんじゃない、直せない。
耳元に寄ったのは、隣の卓の部長がうるさくて声が通らないから。前かがみになったのは、落としたおしぼりを拾っただけ。
指を重ねたのは、腕時計を見るため。……国産。悪くない。靴もちゃんと磨いてある。
膝を向けているのは、反対側の席にエアコンの風が直撃しているから。12センチのヒールで、27歳の足の小指はもう感覚がない。

それより問題は23時だ。本指名の佐々木さんが来る。かぶる。
さっき黒服に目で「ヘルプは誰?」と聞いたら、返ってきたのは新人のミクだった。最悪。あの子はこういう静かな客に、飼い猫の話を40分する。
締め日まで、売上はあと18万。この人が延長すれば、もう一本いける。

私

延長を告げると、彼女は小さく息をのみ、目を伏せた。
私は鞄から手帳を出した。
「実は、小説を書いていまして。官能小説です。今夜は取材で」
彼女のまつげが、ぴたりと止まった。
「さっきのこと、全部メモしてもいいですか。『目を伏せる』のところまで」

ユイ

聞いてない。
いや、待って。それなら、こっちにも言いたいことがある。
手帳を受け取って、さっきの描写に赤ペンを入れる。
「手首の血管、そんなに見えません。照明が暗いので」
「膝、それエアコンです」
「目を伏せたのは、伝票の延長の欄を見ただけです」

彼は耳まで赤くして、それでも嬉しそうに書き直している。
……ちょっと、かわいい。
いけない。こっちが取材されてどうする。
私はもう一度、彼のグラスに氷を足した。今度は、手首を見せないように。
見せないほうが、この人はきっと、もっと書くから。