夜の裏

エレベーターが閉まるまでの十秒

登場人物:ノア(27歳)、ユウ(25歳)、坂上(34歳)

※登場する店と人物は、すべて架空です。

0時、エレベーターの前(僕)

エレベーターが上がってくるまでの、十秒ほどのあいだだった。
ノアさんは僕のネクタイの結び目に指をかけて、ほんの少しだけ締め直した。そのまま指先が、結び目からシャツのボタンをひとつ、ふたつと降りていく。
肩にはおったコートの下から、むき出しの鎖骨がのぞいている。香水は甘いのに、首すじからは、もっと静かな匂いがした。
「ユウくん」
見上げてくる目が、近い。

ノアさんは、大学の写真サークルの二つ上の先輩だ。ここでの名前は本名じゃない。あのころ僕は、彼女の横顔ばかり撮っていた。本人には、たぶん隠せていたと思う。

彼女の親指が、僕の手首の内側をゆっくりなぞった。脈のあるところで、ぴたりと止まる。
「今日、ほんとうに助かった」
耳のすぐ下でそう言って、彼女は小さく折りたたんだ名刺を、僕の手のひらに押しこんだ。僕の指を一本ずつ折って、握らせる。
僕も、用意していた薄い封筒を、彼女の手にそっと渡した。中身は言わなかった。
チン、と音がして、扉が開いた。
閉まりかけた隙間の向こうで、ノアさんは一度も目をそらさなかった。

6時間前、駅の改札(ノア)

今日は月末。締め日だ。

「今月、同伴があと一回足りないの。足りないと、来月の時給が下がる。焼肉おごるから、一晩だけ、わたしのお客さんのふりをして」
電話でそう頼んだら、ユウくんは三秒黙ってから「いいですよ」と言った。昔から、そういう子だ。
ほかのお客さんは? と聞かれたので、一人は急な出張で、一人は既読がつかなくて、もう一人は「奥さんに手帳を見られた」と答えておいた。

お会計のお金は、全部わたしが出す。封筒に入れて、お店に入る前に渡す。黒服の前で財布を出すのは、お客さんでなきゃいけない。

焼肉屋で、注意事項を伝えた。
わたしの膝に手を置かない。黒服が見ているから。
延長を聞かれたら、一回迷ってから「じゃあ」と言う。
帰りはエレベーターの前で見送るから、扉が閉まるまで、わたしの顔を見ていて。店長はドアの陰から、そこまで見ている。
ユウくんは真剣な顔でうなずいて、上カルビを三皿たのんだ。三皿は、聞いていない。

だから、エレベーターの前のことは、全部仕事だ。
ネクタイは本当に曲がっていた。手首に触ったのは、渡したお金のおつりを、ちゃんと財布にしまったか確かめたかったから。
「助かった」は、そのままの意味。名刺の裏にも、いつもどおり『また来てね』とだけ書いた。
そういうことに、しておく。

0時5分、待機室(黒服・坂上)

締め日の夜は、同伴表の集計で終わる。
ノアの欄には、正の字がひとつと、横棒が一本。五回。
うちの同伴ノルマは月に四回だ。ノアの四回目は、十日も前に埋まっている。

締め日に、ノルマの外の同伴を、しかも自腹で入れるキャストはいない。店に入る前、エレベーターの前で彼女が男に封筒を渡したのを、俺は見ている。財布から出てきたのも、同じ封筒だった。
いるとしたら、それはもう、同伴じゃない。

待機室のすみで、ノアが薄い封筒を開けていた。
中から出てきたのは、一枚の写真だった。窓ぎわで笑っている、少し髪の短い横顔。裏に、男の字で一行。
『卒業のとき、渡しそびれました』
ノアはそれを胸に当てて、しばらく動かなかった。この店で二年、彼女が写真を見て笑うところを、俺は初めて見た。

日報の「同伴」の欄に、俺は「ノア 五回(うち一回、私用)」と書いた。
少し考えて、「私用」を消した。
締め日くらい、黒服も見ないふりをする。