袖をつまむ、二本の指
登場人物:セイラ(25歳)、三浦(36歳)、真島(31歳)
※登場する店と人物は、すべて架空です。
私
緑のドレスは、背中が大きく開いていた。
彼女が笑うたびに、肩甲骨のあいだの細いくぼみが、照明の下でかすかに動く。
「セイラです。……三浦さんの手、きれい」
そう言って、彼女は私の指の関節を、爪の先でひとつずつなぞった。くすぐったいのか、心地いいのか、決めかねているうちに指は離れていく。離れていくから、追いかけたくなる。
36歳にして、初めての店だった。連れてきた先輩は一時間で帰り、私はなぜか一人で残っていた。
セイラは脚を組みかえるとき、必ず一度こちらを見る。スリットから、膝の上のやわらかな白さがのぞいて、すぐに隠れる。見ていいのか、いけないのか。その許可を待っているあいだに、彼女はグラスの水滴を指でぬぐい、その指先を、自分の唇の端にそっと当てた。
「わたし、こういう静かな席、好き」
耳のすぐそばで言われると、言葉の意味より先に、息の温度が届く。
そこへ黒服が来て、片膝をついた。
「セイラさん、お願いします」
彼女は「はーい」と明るく答えて、腰を浮かせた。
そのときだった。
テーブルの下で、彼女の指が、私のスーツの袖口をきゅっとつまんだ。
ほんの一瞬。ほんの、二本の指で。
「……まだ、いたいのに」
誰にも聞こえない声だった。私にだけ聞こえる声だった。
「場内指名、で」
自分の口がそう言うのを、私はどこか遠くで聞いていた。
同じころ、黒服・真島の目線
レジ横の柱には、大きな鏡が貼ってある。客は身だしなみ用だと思っているが、あれは俺たちがホールじゅうを見渡すための鏡だ。
五番卓、三浦様。フリー、初来店、先輩の連れ。先輩は一時間で帰った。こういう客は、自分がなぜ残ったのかを、まだ分かっていない。
付け回しは、時計とパズルだ。フリーの客には二十分ほどでキャストを入れ替えて、何人かに会わせる。ただし、盛り上がっている席ほど、あえて早めに抜く。いちばん楽しいところで取り上げられると、客は取り返したくなる。それが場内指名になる。
だから俺は、五番卓がいちばん温まった瞬間を待って、膝をついた。
セイラの袖つまみは、今夜これで四回目だ。
七番の常連、三番の出張帰り、カウンター前の若いの、そして五番。どれも俺が膝をついた二秒後。どれも二本の指。どれも「まだ、いたいのに」。
彼女の場内指名の率は、店でいちばん高い。店長はそれを「天性」と呼ぶ。天性なわけがない。あれは段取りだ。
バックヤードの壁には、ラミネートした紙が貼ってある。
『風紀 発覚した場合は罰金』
風紀というのは、黒服とキャストが付き合うことだ。黒服は付け回しで、好きな女にばかり良い席を回せてしまう。だから、たいていの店でいちばん重い禁止事項になっている。
インカムで「五番、場内いただきました」と告げると、店長が親指を立てた。
今夜も、俺の付け回しは公平だ。
たぶん。
閉店後、送りの車
送りの車は、家の近いキャストから順に降ろしていく。セイラの家は、いつも最後だ。そういう順番を組んだのは、俺だ。
最後の一人が降りると、後ろの席から伸びてきた指が、運転席の俺の袖口をきゅっとつまんだ。
二本の指。
「今日、四回」
「五回だろ。カウンターの若いのも」
「あれは場内が取れなかったから、数えない」
信号が赤になる。セイラはバッグの奥から細いチェーンを出して、通してあった指輪を左手の薬指にはめた。店では外している指輪だ。俺の左手にも、同じものがある。こっちはハンドルカバーの陰で、店長はまだ一度も気づいていない。
「五番の三浦さん、もう一回来るよ」
「なんで分かる」
「袖をつまんだとき、手首の脈が速かったから」
「……そんなとこまで見てるのか」
「見てるよ。あなたが膝をつく二秒前に、わたしが鏡で合図してることにも、あなたは気づいてないけど」
俺は思わず、バックミラーの中の彼女を見た。
抜くタイミングを決めていたのは、俺じゃなかったらしい。
赤信号が長い。
セイラはもう一度、俺の袖をつまんだ。今度は、離さない。
「まだ、いたいのに」
「もう家に着くぞ」
「じゃあ、遠回りして」
遠回りの道順は、送りのルートには載っていない。
俺はウインカーを、右に出した。